中華航空機事故、生き残った3歳児の"29年" 結婚して父親に…治療医師や救助隊員と交流・再会も

2023年4月26日 17:13
1994年、名古屋空港で中華航空機が墜落し、乗員と乗客合わせて264人が亡くなった事故。26日、この惨劇から29年が経ちました。当時3歳で、一命を取り留めた男性が、今の思いを語りました。

事故飛行機に搭乗していた長谷部弘義さん

 名古屋空港に隣接する「やすらぎの園」。「慰霊の日」の26日、遺族らが犠牲者を追悼し、空の安全を祈りました。

「私の主人なんですけど(29年経つが)いつも一緒にいてくれる気がしている。そうでないとなんとなく…やっていけないかなと」(夫を亡くした今村宏江さん)

「『今年も来たよ』『忘れてないよ』と」(弟を亡くした小寺紀行さん)

「両親が亡くなった年を(自分が)超えてしまったので、今考えるとまだまだ若かったなと思う」(両親を亡くした宮崎明子さん)

「乗り物の安全や社会の安全というものは、『これで終わり』というものは基本ないのだと思います。遺族として訴えていかないといけないんじゃないかと」(遺族会 山本昇 会長)
 

中華航空機墜落事故、発生直後の様子(1994年4月26日)

乗客・乗員合わせて264人が亡くなる惨劇
 1994年4月26日。

「名古屋空港の現場のすぐ横、目の前に機体の残骸が転がっています。中華航空の機体は、ほとんど跡形ないといっていいほどの壊れ方です」(当時の記者リポート)

 台湾発の中華航空機が名古屋空港で着陸に失敗し、炎上。乗客・乗員合わせて264人が亡くなり、国内の航空事故としては1985年の日航ジャンボ機墜落事故に次ぐ大惨事となりました。

「初めて見る光景で、ちょっと足がすくんだのを覚えています」(当時救助活動を行った、航空自衛隊小松基地の中村秀昭さん)

 当時、航空自衛隊の小牧基地に所属していた中村秀昭さん。発生直後の現場の様子を、今も鮮明に覚えています。

「人の気配が全くなかったんですよ。立ち歩いてる人とかそういう人たちは全くいなくて」(中村秀昭さん)

 少し経つと、子どもの泣き声が聞こえてきました。大破し、瓦礫のようになった機体の下からでした。

「(機体を持ち上げたのは)7~8人はいました。それぐらいじゃないと逆に上がらなかった瓦礫でだったので。自分が瓦礫の中で見つけたので、入って行った時に、元気に泣いてくれているんで、大丈夫かな、生きてくれるなって感じで。痛くならないように全部包むように抱いて、そのまま救急車で連れて行きました」(中村秀昭さん)

 事故の生存者はわずか7人。その中に、3歳の男の子がいました。
 

長谷部弘義さん (左)3歳 (右)32歳

当時3歳で事故に遭った男性
 あれから29年。長谷部弘義さん(32)が一緒に乗っていた母親は、事故で亡くなりました。

Q.目を覚ました時に、何が見えた?
「小牧市民病院の天井と父の声ですね。『ヒロ、パパだぞ、分かるか』と」(事故飛行機に搭乗していた長谷部弘義さん)

 一命は取り留めましたが、脾臓が破裂するなど、内臓に大きな損傷を受け、足は骨折していました。

「損傷した脾臓摘出とお腹に今も傷が残っていますし、あとは足やふくらはぎ、かかとに傷を負っている」(長谷部さん)

 当時、小牧市民病院の外科部長として長谷部さんの治療を担当したのが、末永裕之医師です。
 

長谷部さんの治療を担当した末永裕之医師

当時の医師はつきっきりの治療
 末永医師に当時の心境を聞きました。

「たぶんお母さんがヒロ君をきっと『何とか…』と支えてくれたもんだから、いろいろと多発外傷はありましたけども、あの命があったっていうようなところも、やっぱりありますよね。これは何としても助けたいっていう気持ちがもちろん強かったですね。一番大変だったのは、手術の後の呼吸管理ですね。浸出液が出てくるので30分1回ぐらいは吸引しないと、どんどん酸素濃度もに下がってくるわけですね」(末永医師)

 つきっきりの治療は約2週間続き、次第に呼吸は安定していったといいます。

「その次は、水などが飲めるかっていう話になるわけですね。”ペコちゃんキャンディ”っていうのがありまして。舐めて、それから唾液とともに一緒にゴクンと飲んだんですね。それがむせなかったもんだから、これなら何とか飲めるように、食べるようになるなっていう」(末永医師)

 その後も長谷部さんの回復は進み、事故から3か月後、退院の日を迎えました。

「当時は母親を亡くして辛かったですけど、それからの過程は全然、辛いことも乗り越えましたし、飛行機事故より辛いことはないと心に思っていたので、何でも乗り越えて来られました」(長谷部さん)
 

末永医師は長谷部さんの結婚式にも出席

退院から26年後、結婚式のゲストには――
 退院から26年後。長谷部さんの結婚式には、末永医師の姿がありました。

「ヒロ君はものすごく強い子で、一回も泣いたりしたことはなかった」(末永医師)

「(結婚式に出席してもらって)めちゃくちゃうれしかったですね。最大の恩返しになったなと思いますね。末永先生は事故当時から家にも帰らずほぼ24時間付き添いで。水すら飲めなかったので、綿棒か綿を使って、水を飲ましてくれたりっていう命の恩人だなと」(長谷部さん)

「本当に大変だった人が、またお母さんの分まで幸せになってほしいと願ってたわけですよね。ああよかったなと。本当にある部分、医者の冥利に尽きるなっていうところはありますよね」(末永医師)
 

航空自衛隊の中村さんと再会

救助活動の自衛隊員とも運命的な再会
 そして、現場で救助活動に当たった航空自衛隊の中村さんとも、運命的な再会がありました。

 中村さんは7年前、知人の紹介で、長谷部さんが経営する店を訪れたそうです。

「大泣きしちゃいましたね。生きててくれてよかったと思って。抱き合って『生きていたぁ』とかいう感じです。喜んでいました」(航空自衛隊小松基地・中村秀昭さん)

 航空整備員の中村さんは業務中、常に心に留めていることがあるといいます。

「中華航空機事故を経験して、整備員として防ぐためにはどうすればといいのかという形で、自分の仕事と向き合う姿勢ですよね。そういうのを考えて、日々邁進している状態です」(中村さん)
 

長谷部弘義さんと父親(右)

父親への特別な思いーー
 2021年、長谷部さんは父親になりました。事故の後、常に寄り添ってくれた自分の父親には、特別な思いがあるといいます。

「朝から晩までという仕事を昼までにしたりだとか、その会社でそれが通用しなければ転職したりだとか…。事故以来、悲しい顔もせずに。自分のためを思ってだと思うんですけど、常に明るく、常に楽しいことしようと。自分の中では自分の父親が一番なので、その一番を超えたい」(長谷部さん)
 

事故飛行機に搭乗していた長谷部弘義さん

「後世の方たちにも伝えていけたら」
 長谷部さんは今でも、飛行機に乗ると手に汗をかくなど緊張感に襲われるといいます。

 悲惨な事故が二度と起きないように――。長谷部さんは、中華航空機事故を風化させてはならないと訴えます。

「まずは、こういう飛行機事故をなくしてほしい。このような被害者遺族や被害者の方々に、辛い思いをしてほしくないというのがあるので、まずは被害者遺族を出さないこと、それを一番に望みますね。日本でも相当大きな事故だったと、その時に生き残ったということで、今後ぼくが、後世の方たちにも伝えていけたらなと」(長谷部さん)

(4月26日15:40~放送メ~テレ『アップ!』より)
 

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